言語のチューニング

言語をチューニングするのが好きだ!!

 

話をするとき、相手の言語レベルを想定しながらそれに合わせて発話を行うやさしさが好きだ。言語レベルというのは日本語の語彙数とか習得してる文法とかも含まれるけど、どんな分野に詳しいかとか、知らないことも柔軟に対応できるかとか、もろもろを含めたコミュニケーションのことを僕は言語のチューニングと呼んでいる。

 

転勤族だった自分はいろんな人とその場における独特のノリや文化から構成される言語レベルを想定し、いち早くそれを習得するようにしていた。大学では意図せず多文化共生について学ぶことになったが、異文化コミュニケーションにおいても必要な要素だと思う。日本語学習者にわかりやすい日本語を考える「やさしい日本語」も同様のことですね。

 

この言語のチューニングというのは実は誰でもやっていることで、大なり小なり意図せずとも日常的に行われている。例えば赤ちゃんに対してバブバブ言うとか、老人に対して大声でゆっくり繰り返して話すとかね。相手に合わせて言葉を選ぶチューニング、そういう気遣いみたいなものを見たときなんだか嬉しい気持ちになる。

 

 

けど〜、チューニングせずに原文をぶっぱなしたい時もあるんでげす。上記の文は「これを読む誰か」に対して「できるだけ論理・順序だてて」「優しい言葉で」書いたものなんでやんす。この段落はチューニングせずに書き始めてます。気付いた?語尾変わっただけやんけ。いやこういうセルフツッコミもチューニングしてたら出ない発言なわけです。

 

いろんな媒体で文章を書いてきて感じたのは、「これを読む誰か」にチューニングしすぎると自分がなくなりすぎてしまうじゃないの〜?という。小学生の時に自分の趣味で友達に向けて書いていた黒歴史ブログが多分一番濃かった気がする。濃すぎて未だに思い出すたびに赤面させるほど。恥じてはないんだけど、内容を誰かに話して笑えるほど昇華もしていない。黒歴史を昇華させる人間って存在するのか?全人類の課題、黒歴史の昇華。昇華ってなんなのかよくわからんけど…。

 

ということで言語のチューニングは好きだし意図してやっているけど、原文ぶっぱも意図してやっていこうというお話でした。今回は半分半分でやったけど、どどどどん意味わからないやつも書いちゃお〜っと。やったぜ、らくがき帳宣言です。