そういえばコロッケの発祥って知らない

フランス料理の「クロケット(肉や魚や野菜などをホワイトソースで包んでパン粉で揚げた料理)」がコロッケのルーツだと言われているそうです。諸説あり。ほげ〜。

 

(コロッケの起源 日本のコロッケの歴史|合同食品株式会社を参照しました)

コロッケの起源 日本のコロッケの歴史 | 合同食品株式会社

 

ジャガイモをすりつぶして作る「コロッケ」は日本発祥のようですね。コロッケの亜種扱いされている「クリームコロッケ」の方が実は元の姿だという…おもろんげ〜。にしてもクリームコロッケがジャガイモコロッケになった点には飛躍がありますね。ナイス飛躍、ナイス発明、食文化の発展にカンパイ!

 

飛躍で生まれた料理としては他にも「肉じゃが」がありますよね。東郷平八郎がイギリスで食べたビーフシチューに感動し、日本に帰った後に調理人に頼んで再現してもらった結果に爆誕したのが肉じゃがだと言われています。広島の「くれ肉じゃがの会」もそう言ってる。ビーフシチューと肉じゃが、正解像を知っている人からすればかけ離れているように見えますが、調理人の苦心が見えて好きです。東郷平八郎の無茶振りに頑張って答えたんだよなあ。

 

東郷平八郎「イギリスで食べた〜茶色くて〜肉が入っていて〜野菜も入っていて〜煮られてて〜汁っけがあって〜おいしいやつ」

 

無理やて。東郷平八郎が悪いとかでも伝え方が悪いとかでもなく、正解像を知らない状態でイメージから料理を再現すること自体が無理なんやって。えっぐ〜い作業ですよね。晩飯の希望で「なんでもいいよ」って言うくらいえぐい。なんでもいい=どうでもいいではないですからね。でもそんな中で肉じゃがという新たな料理を生み出したあんたはスゴイ!名前残ってないのかな、肉じゃがの母(父?いやそんなジェンダーいらんのや)。

 

肉じゃがの飛躍に比べるとコロッケの飛躍はかなり距離が近いですよね。ビーフシチューに比べてクロケットは完成形のイメージを伝えやすい気がする。どうなの?東郷平八郎

 

東郷平八郎「なんか〜丸くて〜衣がサクサクで〜中に白くてトロッとしたものが入ってて〜おいしいやつ」

 

さっきよりだいぶ分かりやすいですね。いいぞ、東郷平八郎。形状はイメージできますし、食感がわかるのもプラスです。ちなみに東郷平八郎はコロッケには関係ありません。

 

私はこの「白くてトロッとしたもの」を「すりつぶしたジャガイモ」で表現したところにすごく努力を感じます。栗きんとんから着想を得ているのかなあ、甘くない栗きんとんってイメージで作ったのかなあ。いいもんつくったねえ。東郷平八郎に無茶振りされたとき、僕ならどんなものを作るだろうか。東郷平八郎に「思ってたんと違うけど…ええやん」って言われたい。(東郷平八郎はそんなこと言いません)(ぬるりん堂は東郷平八郎を応援しています)

言語のチューニング

言語をチューニングするのが好きだ!!

 

話をするとき、相手の言語レベルを想定しながらそれに合わせて発話を行うやさしさが好きだ。言語レベルというのは日本語の語彙数とか習得してる文法とかも含まれるけど、どんな分野に詳しいかとか、知らないことも柔軟に対応できるかとか、もろもろを含めたコミュニケーションのことを僕は言語のチューニングと呼んでいる。

 

転勤族だった自分はいろんな人とその場における独特のノリや文化から構成される言語レベルを想定し、いち早くそれを習得するようにしていた。大学では意図せず多文化共生について学ぶことになったが、異文化コミュニケーションにおいても必要な要素だと思う。日本語学習者にわかりやすい日本語を考える「やさしい日本語」も同様のことですね。

 

この言語のチューニングというのは実は誰でもやっていることで、大なり小なり意図せずとも日常的に行われている。例えば赤ちゃんに対してバブバブ言うとか、老人に対して大声でゆっくり繰り返して話すとかね。相手に合わせて言葉を選ぶチューニング、そういう気遣いみたいなものを見たときなんだか嬉しい気持ちになる。

 

 

けど〜、チューニングせずに原文をぶっぱなしたい時もあるんでげす。上記の文は「これを読む誰か」に対して「できるだけ論理・順序だてて」「優しい言葉で」書いたものなんでやんす。この段落はチューニングせずに書き始めてます。気付いた?語尾変わっただけやんけ。いやこういうセルフツッコミもチューニングしてたら出ない発言なわけです。

 

いろんな媒体で文章を書いてきて感じたのは、「これを読む誰か」にチューニングしすぎると自分がなくなりすぎてしまうじゃないの〜?という。小学生の時に自分の趣味で友達に向けて書いていた黒歴史ブログが多分一番濃かった気がする。濃すぎて未だに思い出すたびに赤面させるほど。恥じてはないんだけど、内容を誰かに話して笑えるほど昇華もしていない。黒歴史を昇華させる人間って存在するのか?全人類の課題、黒歴史の昇華。昇華ってなんなのかよくわからんけど…。

 

ということで言語のチューニングは好きだし意図してやっているけど、原文ぶっぱも意図してやっていこうというお話でした。今回は半分半分でやったけど、どどどどん意味わからないやつも書いちゃお〜っと。やったぜ、らくがき帳宣言です。

いまさらハリポタにハマりぽた

ハリーポッター炎のゴブレットを観終わりました。
Amazonでレンタルできるの便利すぎるよ。
早く次のやつ観たいのですが、興奮冷めやらぬ内にひとり語りしませう。

 

ハリーポッターをちゃんと観たのは初めて、これが1周目。
正直子どもの頃に何度か観た記憶はあるんだけど、恐らく当時は鼻ほじりながら観てたんだろうなというくらい記憶に残っていなかった。
というかなんとなく「魔法使ってるなんかすごいファンタスティックな映画」くらいにしか認識できていなかったのだろうなあ、と今になって思う。
大きくなった今になって観てみると全然違う面白さの連続発見なので、これを私のハリポタ1周目とします。ハイ、決まりました。今のところ2021年ベスト映画です。ぶっちぎりでね。ハリポタしか観てないけど。

 

ストーリーとかキャラクターの魅力はもう大方語られ尽くしていると思うから、論点をズラして語るよ。親切なオタクだね。
どうしてハマっているか一言でいうと、ハリポタの持つ「想像力の解像度の高さ」が与えてくれる遊びがたまらないから。
オタク語りいくぞ〜!ちなみにお気づきかと思いますが、私は分析タイプのオタクです。ハマった作品がなぜ好きなのか、どこがどんな意味を持ち自分に影響を与えたのか、自分の見方は客観的に見てどうなのか…等を考えるタイプ。
ハマった勢いでこういう文章を書いて公開しておくと、いつの日か薄ら恥ずかしくなる日が来ることも体験的に何度も知っているのですが、やめられませんね。そんなことはいいのよ。

 

 

ここで記憶をたどってほしいのですが、ハリーポッターシリーズ第1作目「賢者の石」を最後に観たのはいつですか?
ストーリーやあらすじは思い出さなくて大丈夫です。
第1作目が公開されたのは2001年、今から20年前のことです。マジ?20年経ってるの?信じたくない。賢者の石があればいますぐ使いたいよ。
そんなことは置いといて、20年前の作品でしかもテーマが魔法とあれば、例え不朽の名作であっても劣ってしまう部分があります。
そう、CGの技術です。魔法が使われているシーンはどうしてもCGを使ったり特撮(って言うんですか?映画詳しくないので分かりませんが、オバケ柳みたいなところとか)をしなければならないのですが、現代のCG技術に慣れた目で見るとどうしても違和感が目立ってしまいます。賢者の石を観たのが最近であればあるほど、技術の差が開いてしまいますね。というか現代の技術が進みすぎていて、今や現実もCGも差がない状態まで来ているのが凄すぎるのでは?と改めて実感する機会にもなりますね。まあそれは置いといて。

 

昔の映画なんだからそんなことは当たり前なのです。じゃあ何がすごいのかって話なのです。ハリポタはCG技術だけに頼ることなく、作品の全てに想像力を働かせてハリポタの世界を映像上に再現しているところがたまらんのです。

 

賢者の石を観た時に生じた違和感についてもう少し考えてみます。
例えば「物が動く」とか「光が飛び出る」みたいないわゆる魔法がCGによって表現される時、我々は「対象の物が移動する様子」や「白い色が飛び出る様子」を視認することで「物が動いた」とか「光が飛び出た」と認識します。当たり前のことですが、物が動く様子を視認できなければ物が動いたと認識することはありません。何かを見る時はそれに対する想定も同時に生じているのです。これとは逆に、観る側の想定がその事象を狭める可能性があることに注意しなければなりません。観る側が「あ〜物が動いたな〜」「光が出たな〜」としか認識できない場合、実際に起きている事象が「物がワイヤーで引っ張られているかのように1点を先頭に動く」とか「青白くうすぼんやりとした光が点滅しながら飛び出した」みたいなことであったとしても認識できない。目に入っていないと認識することはできませんが、目に入っていても全てを認識できるというわけではないんですね。
では、人がCGを見る時はどのような想定が起きているのでしょうか?
賢者の石でトロールが登場したシーンでは「汚れた緑色の巨人がゆっくり動いて襲いかかって来る」様子をCGで表現していましたが、これを観る側は「はは〜ん、これはトロールと呼ばれる怪物が登場してハーマイオニーを襲おうとしているシーンなんだな、ちょっと影が怪しくてCG感はあるけどリアルだなあ」と認識します。この想定に基づくと「トロールっぽいもの」「襲う動き」「ハーマイオニー」等の要素を想定してCGを観ることになり、これらの要素の出現をもってして上記の認識になるわけです。

 

我ながら何言ってるんだろう、これ先生も読んでるのかな、こわくなってきちゃったな。

 

さてここで問題なのが、想定している要素が必ず出現するわけではないということです。「トロールっぽいもの」「襲う動き」「ハーマイオニー」のうち、「ハーマイオニー」は実写の人物であるので想定通りに出現しますが、「トロールっぽいもの」と「襲う動き」に関しては想定と違う可能性があります。技術力的に再現できない場合もあると思いますし、制作側と受け取り側の「トロールっぽいもの」「襲う動き」の認識が異なる場合もあるからです。極端に言えば「緑色で大きくてゆっくり動くトロール」を想定して観ていたら、制作側が出してきたのは「黒くて小さくて素早く動くトロール」だった、なんて可能性もあります。

 

「あ!?これが〇〇なんだ!?」ってビックリ感、制作物を観る時そういうギャップはたまにありますよね。でもこちらも良い大人なので、そういうことがあっても「これはそういう意味なんだね〜」と理解することができます。大人なので。そして想定と差がある表現に対して、意図を探る時に働く力が想像力なのではないでしょうか。ハイ出た想像力、ハリポタの魅力だって言っていたやつです。なげ〜、やっと想像力にたどり着いた。

 

ここで「想定と差がある表現」という書き方を使ったのは、CG技術の不足によって生じるネガティブなギャップのみならず、こちらの想定を超えてくるポジティブなギャップも存在しうるからです。そしてこのポジティブなギャップとその意図を読み解くことが出来た時に私は感動するんですね〜、他の人は知らん。別の言い方をすると、自分の予想の範疇を超えた表現に遭遇した時に生じる想像力を使って映画を観ることを楽しんでいるのかもしれません。長くなってきました、早く次の章を観たいのでシめます。

 

そう考えてみると、私が映画を観る時に求めているのは「自分の予想を超えてくるかどうか」という点であることが分かりました。CG技術の高い低いはどちらでもよいのです。これをハリポタに当てはめて考えてみると、自分の想像力のちっぽけさを感じる感じる。もちろんCG技術が荒い初期作品については、こちらが想像力を働かせることで補わないといけないシーンもあります。しかしそれ以上に、観る側の想定を超えてくる緻密な世界観がとめどないワクワクを与えてくれるわけです。みんなも魔法使い達のいる商店街行きたいよな。「自分が魔法を使えたらどんなに楽しいか」なんて夢は恐らく誰もが考えたことがあるとは思いますが、学校があったらこんな感じ…学生の様子はこんな感じ…制服はこう…寮があって…と精緻で解像度が高い点までは私は想像が及んでいませんでした。作者はすごい。ハリポタは世界観や作品の細部までが自分の予想を超えている内容であるため、CGという表現手法が予想の範疇であったとしても問題はないわけです。なぜならその内容自体がすでに想像力を働かせてくれるものであるからです。

 

ここまでだとハリポタは「絶大な想像力を持った天才が描いた魔法使いの世界のお話」で終わってしまいます。ですが私はその天才が描いた世界を、映画で表現し直したことに遊び心を感じ、これが魅力だと考えています。ハリポタの本を未履修なので原作がどうなっているかは分かりませんが、映像で表現するにあたってかなりの部分の背景セットや小道具などが創り出されたはずです。原作では言葉で表現されていなかったものたちが、映画という媒体になる際に形取られていった…原作にはない部分を想像して創り上げ、尚且つ観る側の予想を超える想像をした人たちがいるというところに、アツくときめいてしまうわけです。「そんなところにそんなもん置くんかい!」「模様細かすぎ〜!」「このモブキャラ何話してるの〜!」なんていうワクワクが止まりません。「ワシらはこう想像したけど、君はどう想像するんじゃ?」と映画制作陣に問われているようです。この遊び、とめられないね〜。

 

ながいよ。3500文字だってさ。ヒー。
ちなみにCGに着目してみると、炎のゴブレットの段階でCG技術はこっちの想定を超えてきます。すっげ〜。

今日は書くことないです(ありました)

なら何を書くのよ。うーん?

毎日更新すると決めたわけではありませんが、はてなブログは現実逃避にとてもよいのです。イイネとかフォローフォロワーと無関係なところもnoteから逃げてきてよかったなと思います。ちょうどいい沼ですね、ゴポポ…。筆を取ってはみたものの何も書くことが浮かばない、そんな日もある。でもだからこそ何か書いてみようじゃないか、今まで見つめてこなかったものの中に、何か新しいものがあるのかもしれません。自分の価値観を変えるチャンス!変容型学習ですね。何事も学びです。

ということで散文をぶちかましていきます。ついてこいよお〜!!

 

・おやつストックを補充した話

部屋に常備しているおやつを補充しました。
わたくしアダグイをする習性があるのですが、何かを作る手間よりも食欲の方が強いのが厄介なのです。何か食べたい!けどすぐに食べられるものがない!という時、諦めることができないのです。めっちゃごっついパスタとか作っちゃう。

パスタ、ちょうどいいんですよね。レンチンでパスタを茹でられる容器を買ってからというもの、パスタはちょい面倒だけど手の届くおやつメンバーに入ってしまいました。ドン!炭水化物!ドン!たまんね〜。

しかしそんなおっもい食べ物をおやつにしていると、肝心の主食の方にさくエネルギーがなくなってしまうわけです。人間というものは1日の内に料理にさくエネルギーが決まっている生き物なので、おやつに手間をかければその分だけ料理にさくエネルギーが減ります。これは私という人間を25年間観察し続けてわかった研究なので、私界隈ではかなり信頼できるデータです。おやつにパスタを食べるようになってから、主食の料理の質がドンと落ちた気がします。これではいけない!

ということで、もっと気軽に食べられるようにおやつを常備することにしました。天才的な解決方法ですね。誰も気付かなかったんじゃないかな。

おやつ、少しでも買うとそれしか食べなくなる、一瞬でなくなってしまう、な〜んて問題があったので実は敬遠していたものです。そこでアイガッタ天啓ドン(ひらめいた)。おやつを大量に常備すればいい!おやつの在庫が少ししかないと、生存本能が刺激されるのでしょうか、食欲が刺激されまくってしまいます。しかし在庫が大量にあれば…?そう、安心感がお腹を満たしてくれるのです。これが平和。

そんな天才ofおやつな私は「カステラドーナツ」「ぽたぽた焼き」「ブッセ」を買い込んできました。今私の部屋ではハムスターとおやつが寝ています。なんて幸せな生活なんだ。

このレベルの話をいくつか打とうとしましたが少し長くなってしまったので割愛します。
あと打ってみて気付いたのですが、「アダグイ」って方言なんですね…漢字にならないわけです。間食する〜みたいな意味ですよ。勉強になりましたか?

欲しいものはすぐなくなる

ようやく近所のスーパーが開き始めました。
正月で我が家の食糧をあらかた貪り尽くしたので補充する必要があります。
しかし前回の記事でも書いた通り、おーじーいーつ(祖父から送られてくる仕送りガチャのこと)も視野に入れた買い物をしなければなりません。

nururin.hatenablog.com

ここのところのガチャの排出傾向として高いのが「じゃがいも」と「玉ねぎ」の2つ。
カレーにぶち込んで大量消費することも出来るのですが、やはり同じ味では飽きが来てしまう。
ましてやカレーは何を入れてもカレーの味になってしまうので、飽きを回避することはかなりの難易度なのであります。

そんな窮地を救ってくれたのが「バターチキンカレーのルー」です。
わたくし何を隠そうカレーの中ではバターチキンカレーが好きなのですが、自宅で作れないことやお店でなかなか置いていないことから、恋心を募らせる一方だったわけでありまして。
食べる機会に恵まれていなかったバターチキンカレーのルーを、近所のスーパーで発見してしまったのです。
パッケージに記載されている材料は玉ねぎと鶏肉、どうやらじゃがいもは使わないようですが、この際良いでしょう。玉ねぎを大量消費する方向にシフトチェンジ!
じゃがいもは細切りにしてじんわり焼いてガレットにします。
玉ねぎをレシピよりも多めに使い、少し細めに切って味が溶けやすいようにします(溶けやすくなるかは知りません)。
レシピに従って普段買うことのない牛乳を準備し、美味しいバターチキンカレーを作ることが出来ました。
玉ねぎもたくさん使えてハッピーです。

普通のカレーほど味が強くないので飽きが来るのも遅いでしょうし、ハマっている内にもう何回か作って玉ねぎをモリモリ使っていきたいですね。
そう思い近所のスーパーにルーを買いに行ったらもう売り場から消えていました。
売り切れて棚が空になっていたのではなく、その存在すらなかったかのように。
欲しいものはすぐなくなりますね。

じいちゃんは私を猫だと思っている

カツオブシが毎月送られてきます、こんばんは。

もちろんそれだけではなく、他にも野菜やお菓子なども一緒です。
ありがたい限りなのですが、少しニーズとズレた物も届くのが玉にキズですね。

このじいちゃんサブスク、送ってくる物にかなり偏りがあることに気付きました。

まず定番として挙げられるのがカツオブシ。
小パックになっている物や荒削りの物や大袋の物など様々です。
じいちゃんは恐らく私を猫だと思って餌付けしているので、カツオブシをあげれば喜ぶと思っているのでしょう。
幸い私は自炊する習慣があるので、茹でた野菜にまぶしたりご飯にかけたりとカツオブシライフを楽しむことができますが、流石に毎日は使いません。
それがほぼ毎月送られてくるとなると当然のように消費が追いつかなくなる…。
そこで編み出したのが「そのままかじってオヤツ作戦」。
程よい塩味とみなぎる旨味があって意外と良いのです。
カツオブシをかじって喜ぶ、私は猫だったのかもしれません。
じいちゃんありがとう。

次に多いのが海苔の佃煮。
瓶詰めにされているやつです。ご飯ですよ!が有名ですね。
じいちゃんは聞いたこともない商品名の海苔の佃煮をくれます。
これも味は好きなのですが、毎日食べられる物ではありませんでした。
ご飯に載せるだけでは飽きがすぐ来てしまう…敗因は他のレシピを思いつけなかったことです。
じいちゃんごめん。

さてそんな二大巨塔を抱えながら、じいちゃんサブスク「おーじーいーつ」をいかにして消費しきるかという戦いを強いられています。
ありがたい限りです。たのしい戦いです。

今回は伝票に「野菜」と書かれた荷物が届きました。

・新聞に包まれた何かの塊(恐らく白菜)
・新聞に包まれた何かの塊(恐らくキャベツ)
・玉ねぎ
・じゃがいも
・サツマイモ
・キッチンペーパー(剥き出しの物が1ロール)

カツオブシが入っていないことを少し残念に思ってしまっているので、もう私は猫ということでいいです。

ハムなら俺の後ろで寝てる

ハムスターを飼い始めてから3日経った。

毎日あくせくと集めているネットの飼育情報によると、家に迎え入れてから2〜3日は警戒心が強いため、ある程度放置しないといけないとのこと。
(ご飯とかはあげるけどね、見たり触ったりするのは控えた方が良いってネットのハムスター博士たちが言ってた)

あいや分かった、ハムのストレスにならぬよう、快適な空間を作ろう。
ケージには布を被せ、部屋には暖房をつけ、ペット用ヒーターを買い、出来るだけ自室にはいないようにしよう。
これではどちらが部屋の主かわからないが、良いのだ。

暖房にいたっては今まで何年もつけずに暮らしてきたのに、ハムが来た途端にフル稼働である。だが、これで良いのだ。

全てはハムの警戒心が和らぐために。まだ3日しか経っていないためにこれらの気遣いがハムに伝わっているかはまだ分からないが、うかつに手を突っ込んで怒られるのもよろしくないので、ゆったりと様子を見ていくことにする。

ハムなら俺の後ろで寝てる。
触ったり撫でたりは出来ないけど、生き物がそこに存在する事実が心を温めてくれる気がしている。

あと暖房つけまくってるから単純に部屋が暖かくて幸せ。