いまさらハリポタにハマりぽた

ハリーポッター炎のゴブレットを観終わりました。
Amazonでレンタルできるの便利すぎるよ。
早く次のやつ観たいのですが、興奮冷めやらぬ内にひとり語りしませう。

 

ハリーポッターをちゃんと観たのは初めて、これが1周目。
正直子どもの頃に何度か観た記憶はあるんだけど、恐らく当時は鼻ほじりながら観てたんだろうなというくらい記憶に残っていなかった。
というかなんとなく「魔法使ってるなんかすごいファンタスティックな映画」くらいにしか認識できていなかったのだろうなあ、と今になって思う。
大きくなった今になって観てみると全然違う面白さの連続発見なので、これを私のハリポタ1周目とします。ハイ、決まりました。今のところ2021年ベスト映画です。ぶっちぎりでね。ハリポタしか観てないけど。

 

ストーリーとかキャラクターの魅力はもう大方語られ尽くしていると思うから、論点をズラして語るよ。親切なオタクだね。
どうしてハマっているか一言でいうと、ハリポタの持つ「想像力の解像度の高さ」が与えてくれる遊びがたまらないから。
オタク語りいくぞ〜!ちなみにお気づきかと思いますが、私は分析タイプのオタクです。ハマった作品がなぜ好きなのか、どこがどんな意味を持ち自分に影響を与えたのか、自分の見方は客観的に見てどうなのか…等を考えるタイプ。
ハマった勢いでこういう文章を書いて公開しておくと、いつの日か薄ら恥ずかしくなる日が来ることも体験的に何度も知っているのですが、やめられませんね。そんなことはいいのよ。

 

 

ここで記憶をたどってほしいのですが、ハリーポッターシリーズ第1作目「賢者の石」を最後に観たのはいつですか?
ストーリーやあらすじは思い出さなくて大丈夫です。
第1作目が公開されたのは2001年、今から20年前のことです。マジ?20年経ってるの?信じたくない。賢者の石があればいますぐ使いたいよ。
そんなことは置いといて、20年前の作品でしかもテーマが魔法とあれば、例え不朽の名作であっても劣ってしまう部分があります。
そう、CGの技術です。魔法が使われているシーンはどうしてもCGを使ったり特撮(って言うんですか?映画詳しくないので分かりませんが、オバケ柳みたいなところとか)をしなければならないのですが、現代のCG技術に慣れた目で見るとどうしても違和感が目立ってしまいます。賢者の石を観たのが最近であればあるほど、技術の差が開いてしまいますね。というか現代の技術が進みすぎていて、今や現実もCGも差がない状態まで来ているのが凄すぎるのでは?と改めて実感する機会にもなりますね。まあそれは置いといて。

 

昔の映画なんだからそんなことは当たり前なのです。じゃあ何がすごいのかって話なのです。ハリポタはCG技術だけに頼ることなく、作品の全てに想像力を働かせてハリポタの世界を映像上に再現しているところがたまらんのです。

 

賢者の石を観た時に生じた違和感についてもう少し考えてみます。
例えば「物が動く」とか「光が飛び出る」みたいないわゆる魔法がCGによって表現される時、我々は「対象の物が移動する様子」や「白い色が飛び出る様子」を視認することで「物が動いた」とか「光が飛び出た」と認識します。当たり前のことですが、物が動く様子を視認できなければ物が動いたと認識することはありません。何かを見る時はそれに対する想定も同時に生じているのです。これとは逆に、観る側の想定がその事象を狭める可能性があることに注意しなければなりません。観る側が「あ〜物が動いたな〜」「光が出たな〜」としか認識できない場合、実際に起きている事象が「物がワイヤーで引っ張られているかのように1点を先頭に動く」とか「青白くうすぼんやりとした光が点滅しながら飛び出した」みたいなことであったとしても認識できない。目に入っていないと認識することはできませんが、目に入っていても全てを認識できるというわけではないんですね。
では、人がCGを見る時はどのような想定が起きているのでしょうか?
賢者の石でトロールが登場したシーンでは「汚れた緑色の巨人がゆっくり動いて襲いかかって来る」様子をCGで表現していましたが、これを観る側は「はは〜ん、これはトロールと呼ばれる怪物が登場してハーマイオニーを襲おうとしているシーンなんだな、ちょっと影が怪しくてCG感はあるけどリアルだなあ」と認識します。この想定に基づくと「トロールっぽいもの」「襲う動き」「ハーマイオニー」等の要素を想定してCGを観ることになり、これらの要素の出現をもってして上記の認識になるわけです。

 

我ながら何言ってるんだろう、これ先生も読んでるのかな、こわくなってきちゃったな。

 

さてここで問題なのが、想定している要素が必ず出現するわけではないということです。「トロールっぽいもの」「襲う動き」「ハーマイオニー」のうち、「ハーマイオニー」は実写の人物であるので想定通りに出現しますが、「トロールっぽいもの」と「襲う動き」に関しては想定と違う可能性があります。技術力的に再現できない場合もあると思いますし、制作側と受け取り側の「トロールっぽいもの」「襲う動き」の認識が異なる場合もあるからです。極端に言えば「緑色で大きくてゆっくり動くトロール」を想定して観ていたら、制作側が出してきたのは「黒くて小さくて素早く動くトロール」だった、なんて可能性もあります。

 

「あ!?これが〇〇なんだ!?」ってビックリ感、制作物を観る時そういうギャップはたまにありますよね。でもこちらも良い大人なので、そういうことがあっても「これはそういう意味なんだね〜」と理解することができます。大人なので。そして想定と差がある表現に対して、意図を探る時に働く力が想像力なのではないでしょうか。ハイ出た想像力、ハリポタの魅力だって言っていたやつです。なげ〜、やっと想像力にたどり着いた。

 

ここで「想定と差がある表現」という書き方を使ったのは、CG技術の不足によって生じるネガティブなギャップのみならず、こちらの想定を超えてくるポジティブなギャップも存在しうるからです。そしてこのポジティブなギャップとその意図を読み解くことが出来た時に私は感動するんですね〜、他の人は知らん。別の言い方をすると、自分の予想の範疇を超えた表現に遭遇した時に生じる想像力を使って映画を観ることを楽しんでいるのかもしれません。長くなってきました、早く次の章を観たいのでシめます。

 

そう考えてみると、私が映画を観る時に求めているのは「自分の予想を超えてくるかどうか」という点であることが分かりました。CG技術の高い低いはどちらでもよいのです。これをハリポタに当てはめて考えてみると、自分の想像力のちっぽけさを感じる感じる。もちろんCG技術が荒い初期作品については、こちらが想像力を働かせることで補わないといけないシーンもあります。しかしそれ以上に、観る側の想定を超えてくる緻密な世界観がとめどないワクワクを与えてくれるわけです。みんなも魔法使い達のいる商店街行きたいよな。「自分が魔法を使えたらどんなに楽しいか」なんて夢は恐らく誰もが考えたことがあるとは思いますが、学校があったらこんな感じ…学生の様子はこんな感じ…制服はこう…寮があって…と精緻で解像度が高い点までは私は想像が及んでいませんでした。作者はすごい。ハリポタは世界観や作品の細部までが自分の予想を超えている内容であるため、CGという表現手法が予想の範疇であったとしても問題はないわけです。なぜならその内容自体がすでに想像力を働かせてくれるものであるからです。

 

ここまでだとハリポタは「絶大な想像力を持った天才が描いた魔法使いの世界のお話」で終わってしまいます。ですが私はその天才が描いた世界を、映画で表現し直したことに遊び心を感じ、これが魅力だと考えています。ハリポタの本を未履修なので原作がどうなっているかは分かりませんが、映像で表現するにあたってかなりの部分の背景セットや小道具などが創り出されたはずです。原作では言葉で表現されていなかったものたちが、映画という媒体になる際に形取られていった…原作にはない部分を想像して創り上げ、尚且つ観る側の予想を超える想像をした人たちがいるというところに、アツくときめいてしまうわけです。「そんなところにそんなもん置くんかい!」「模様細かすぎ〜!」「このモブキャラ何話してるの〜!」なんていうワクワクが止まりません。「ワシらはこう想像したけど、君はどう想像するんじゃ?」と映画制作陣に問われているようです。この遊び、とめられないね〜。

 

ながいよ。3500文字だってさ。ヒー。
ちなみにCGに着目してみると、炎のゴブレットの段階でCG技術はこっちの想定を超えてきます。すっげ〜。